昭和時代の介護、母の背中を見てきて
昭和45年ごろ、私の祖母(父方の祖母です)は病気で手術をし、それ以来、半身不随となり寝たきりになりました。私が小学4年生のときです。
当時は、入院も今のように特に厳しい期間の制限がなかったようなので、そのまま病院でお世話になるという方法もありました。
私の実家はお店をしていたので、昭和の時代はとても忙しく、祖母を家で介護するのは至難の業でした。しかし、祖母は家に帰りたい帰りたいと我がままを言い、結局自宅で祖母の介護をすることになりました。
当然、嫁である私の母が主に祖母の介護をすることになりました。
夜間の介護は、祖母の娘さんであるおばさんと私の母が1日交代で介護をしていました。
さすがに夜は母もおばさんも熟睡はできませんでした。いつも疲れた体で仕事と介護を続けていました。
当時は介護施設というものもなかったような気がしますし、紙おむつや紙パットなどの介護用品もありませんでした。
祖母は寝たきりでも上手にご飯を食べれるようになったので、飲み食いのお世話は特に必要ありませんでした。しかし、下のお世話が一番大変だったように思います。
大人用のおむつカバーと、さらしでつくった布おしめでの介護でした。
おしっこの交換も大変でしたが、ウンチの交換のときは見ていてもとても大変な作業でした💦
まだ小学生の私でしたが、親の手が回らないときには、祖母の身体を左右に向きを変えたり、おしっこが出た後のおむつ交換もしました。
おしめ洗いは母が1日に何度もしていました。汚物を捨ててから手洗いをして、その後洗濯機で洗濯していたので、私たちの洗濯物もいつもおしめの臭いがしていました(^^;)
母は長い介護の中で、何度か貧血を起こして倒れました。
そのたびに、母に早く良くなってもらいたくて祖母の介護を手伝い、助けてあげました。
このような自宅での祖母の介護が、私が高校を卒業するひと月前、2月の節分のころまで続きました。
私が高校3年の夏、長い介護疲れのせいで母は体調を崩し、病気になりました。
祖母が亡くなる前の年の7月、私が夏休みに入るのを待って母は手術をしました。
母の手術の経過はよかったのですが、無理をして祖母の介護をしてはいけないので、家族や周囲の者も母には実家で静養するように言いました。
しかし、私の父が母がいないと何もできない人だったので、わずか1、2週間で母は実家から帰ってくることになりました(^^;) このとき父に対する怒りが込み上げました。
家に帰ると母は、否応なしに仕事と祖母の介護をすることになりました。
私も高校生になり、家事全般はできるようになっていたし、ある程度の祖母の介護もできるようになっていました。
その後、しばらく母の体調は順調でした。祖母も寝たきりになって9年目を迎えるころでしたが、だんだんと食欲が低下してきました。
昭和54年の2月に、母は手術の後に相当無理をしたため、体調を崩しました。吐き気と腹痛がおさまらず、最後には吐血をしたので、私は学校を休んで母を連れてタクシーで病院へ行きました。
待合室で待っていたら、医師が顔色を変えて、すぐに家族を呼ぶようにと言われ、父を迎えに歩いて家まで帰ったことを覚えています。
私が父にすぐ病院へ行くようにと言うと、父はすっ飛んで病院へ行きましたが、手術後の癒着がもとで母は腸ねん転を起こしていて、その日のうちに緊急手術となりました。
それから母の意識はなかなか回復しませんでした。2月2日の寒い日でした。
次の日の2月3日、祖母は母のことを心配しながら意識混濁となり、2月4日の朝、苦しんだ末に祖母は亡くなりました。
祖母の苦しむ姿を一部始終を見ていたのですが、近所の医師が来て「ご臨終です」と言われても、悲しいとか辛いとかの感情はなく、とにかく、これで楽になれると思いました。
あとは、母のことが心配でなりませんでした。
祖母の葬式も無事に終わり、その日の午後、病院へ行ったら、母はようやく意識が回復していました。
母の入院中は、主に父が母のお見舞いに行っていました。母の側が安心できるみたいでした。
昭和45年から54年までの、約10年に及ぶ祖母の長い介護はこうして終わりました。
子どもの時代から見てきた親の祖母を介護する姿は今でも忘れることができません。
母は84歳になりましたが、祖母や曾祖母、祖父、父を看取り、今は一人になりましたが元気に過ごしています。もうしばらく元気でいてほしいと願っているところです。
きょうは祖母を介護する母や家族のことを書きましたが、介護はする側もされる側も大変なことで、いつの時代も同じく大変です。言葉では言い尽くせません。
少し長い文章になってしまい、まとまりが悪くなりました。この辺で終わりたいと思います。
きょうの朝食とお弁当
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